徳重神社は、鹿児島県日置市伊集院町徳重に位置する神社です。祭神は島津義弘、すなわち精矛厳健雄命(くわしほこいずたけをのみこと)で、その木像が神体として祀られています。本来「さきへじんじゃ」と読まれていたものが、現在では「とくしげじんじゃ」として親しまれています。
徳重神社は、祭神として島津義弘を祀る由緒ある神社です。例年10月第4日曜日に行われる「妙円寺詣り」は、鹿児島市から多くの人々が訪れる伝統行事として有名です。
徳重神社の現在の敷地には、かつて義弘の菩提寺である妙円寺がありました。神仏習合の影響で、寺院と神社が一体となった信仰が行われていましたが、明治2年(1869年)の神仏分離に伴う廃仏毀釈により妙円寺は廃寺となりました。その後、明治4年に創祀されたのが、現在の徳重神社です。
徳重神社の祭神である精矛厳健雄命(島津義弘)は、戦国時代に活躍した薩摩藩の武将です。神体として義弘の木像が祀られており、この像は義弘自身が仏師・康厳に命じて彫刻させたものです。義弘の木像は、出家後に惟新斎と名乗り、袈裟を纏い座した姿を描いており、彩色が施されています。2005年には、この木像が伊集院町閉町記念パンフレットに掲載されました。
妙円寺詣りは、関ヶ原の戦いで敵中突破を成し遂げた島津義弘の苦難を偲ぶ行事です。この行事は、鹿児島城下や現在の鹿児島市の照国神社などから徳重神社までを詣でるものです。毎年10月の第4週に、土曜日と日曜日にかけて行われ、多くの参拝者が訪れます。
徳重大バラ太鼓踊り
徳重大バラ太鼓踊りは、島津義弘が泗川の戦いで敵軍に囲まれ苦戦した際に、大太鼓を叩いて威嚇し、仲間の士気を高め勝利を収めたことが起源です。この踊りは、妙円寺詣りで奉納され、直径1.5メートルの大太鼓を7人前後で叩き、小太鼓(入鼓)や鐘とともに行われます。
島津義弘公御神体
徳重神社の神体である島津義弘公の木像は、義弘が自らの姿を仏師・康厳に彫らせたものです。この木像は、出家後の義弘が袈裟を纏い椅子に座った姿を描いています。
伏波の額
薩摩藩9代藩主・島津斉宣が藩政改革を祈念して文化3年(1806年)に奉納した「伏波の額」は、徳重神社の有形文化財として保存されています。
徳重神社の境内には、歴史的な価値を持つ数多くの石灯籠や建物があります。拝殿の前には、島津氏の者たちが寄附した古い石灯籠が並び、その中には八代当主・島津山松忠厚や九代当主・島津安藝忠喬などの名が刻まれたものがあります。拝殿、灯籠、八角形の手水舎、賽銭箱などには、島津氏の家紋である丸に十の字が刻印されています。
境内の西側には、島津義弘公の殉死者13名の地蔵塔が並んでいます。この地蔵塔は、元和5年(1619年)に亡くなった義弘を慕う家臣たちが殉死した際に建立されたものです。現在では、伊集院町教育委員会による解説碑も設置されています。
徳重神社の境内には、広々とした駐車場、弓道場、相撲場があります。これらの施設は、妙円寺詣りの行事で使用されるほか、初詣などの際には出店も並びます。妙円寺詣りの当日には、境内だけでなく隣接する公園にも多くの出店が並び、賑わいを見せます。
徳重神社の境内のさらに西側には、妙円寺歴代住職の墓がある裏山や古い石仏が並ぶ裏山があります。この裏山には、廃仏毀釈により徳重神社に捨てられたとされる仁王像や馬頭観音像が置かれています。また、これらの石仏はイチョウや紅葉に囲まれた場所にあり、訪れる人々を静かに迎えます。
徳重神社は、島津義弘を祀る神社として、鹿児島県日置市の歴史的・文化的な中心地の一つです。毎年行われる妙円寺詣りや、保存された文化財、歴史的な背景を持つ境内の建物や石仏など、多くの魅力があります。訪れる人々は、島津義弘公の功績とともに、この地の歴史を感じることでしょう。