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新燃岳

(しんもえだけ)

新燃岳は、九州南部の霧島山中央部に位置し、標高1,421mの活火山です。霧島山は古くから噴火を繰り返しており、新燃岳もその一部として知られています。山頂には直径750mの円形火口があり、火口の底には「新燃池」と呼ばれる青緑色の火口湖がかつて存在していました。

位置と地質

新燃岳は、霧島山の最高峰である韓国岳と、霧島山東部に聳える霊峰・高千穂峰の中間に位置しています。地質的には、輝石安山岩からなる基盤山体の上に火砕丘が重なっている構造で、火口の南側には「兎の耳」と呼ばれる二つの岩峰が屹立しています。

霧島屋久国立公園と新燃岳

新燃岳の山域は、1934年(昭和9年)3月16日に霧島屋久国立公園の特別保護区域に指定されました。登山道は平成噴火前まで整備されており、山頂付近にはススキを中心とした草原が広がり、所々に低木のミヤマキリシマが群生していました。しかし、火山活動による登山禁止措置がしばしば取られています。

新燃岳の噴火史

新燃岳の噴火は、10万年以上前から続いています。便宜上、10万年前よりも古い時代を「古期活動期」、それ以降を「新期活動期」と呼びます。

古期活動期と新期活動期

古期活動期には、霧島火山群の韓国岳などと共に約15万年前の活動で形成され、約6万年前に再び活動を開始しました。一方、新期活動期において、新燃岳は約1万年前に山体形成を始め、以降、約5600年前、約4500年前、そして約2300年前に大規模なプリニー式噴火を起こし、周辺に噴出物を堆積させました。

享保噴火(1716-1717年)

新燃岳の有史以降の活動の中で最も知られているのが、1716年から1717年にかけての「享保噴火」です。この噴火は、7つの段階に分けられ、水蒸気爆発からマグマ噴火へと進行しました。この一連の噴火活動によって、死者5名、負傷者31名、神社・仏閣の焼失、600余軒の家屋の焼失、そして牛馬405頭の死亡が報告されています。

1716年の噴火

1716年4月10日、小規模な噴火が発生しました。9月26日には、初めて山麓に降灰が観察されました。また、11月9日には大音響とともに水蒸気爆発が発生し、黒煙が高さ3,000mに達しました。付近の高崎川では泥流が発生し、大きな被害をもたらしました。

1717年の噴火

1717年2月、霧島山東側に広範囲に火山灰が降り積もる大規模な噴火が発生しました。特に2月13日の噴火では、死者1名、負傷者30名、焼失した家屋が134棟、そして農地にも大きな被害が及びました。この噴火による降灰は八丈島でも観測され、その影響は広範囲に及びました。

文政噴火(1822年)

1822年1月12日(文政4年12月20日)、新燃岳で再び噴火が発生しました。この噴火では、南方を流れる天降川で火山泥流が発生し、新しい火口が形成されました。軽石や火砕流を伴う噴火が繰り返され、周辺地域に被害をもたらしました。

昭和噴火(1959年)

1959年(昭和34年)、新燃岳は中規模な噴火を起こしました。この噴火では、水蒸気爆発が観測され、噴煙が上空4,000mに達しました。周辺地域では、火山灰が降り積もり、農地やインフラに被害が発生しました。

新燃岳の影響と対応

新燃岳の噴火は、周辺地域に甚大な影響を与えました。特に1959年の昭和噴火では、周辺の市町村で避難が行われ、新燃池の水が溢れることへの不安が広がりました。また、火山灰が農地に降り積もり、作物に被害が及びました。

噴火の影響と復旧

享保噴火の際には、山麓に深さ1.7-1.9mの火山灰が降り積もり、13万6300坪に及ぶ地域が覆われました。その後、数千人が参加して「砂上げ」と呼ばれる農地復旧作業が行われ、藩からの支援もありました。文政噴火や昭和噴火の際にも、周辺地域で復旧作業が行われました。

新燃岳の噴火は、人々の生活や地域社会に深い影響を与えており、これらの噴火の記録は、火山活動の理解と防災対策の重要な資料となっています。

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