東市来町美山は、鹿児島県日置市に位置する大字で、かつては薩摩国日置郡伊集院郷苗代川村と呼ばれていました。この地域は、安土桃山時代にさかのぼる深い歴史を持ち、薩摩焼の発祥地としても知られています。
東市来町美山は、慶長の役(1592-1598年)において島津氏によって朝鮮半島から連行された陶工たちが集まって形成された「苗代川村」にその起源を持ちます。彼らは薩摩焼の生産を開始し、その技術と文化は薩摩藩の保護の下で発展しました。特に、1867年のパリ万国博覧会に出展された薩摩焼は世界的に注目を集め、国際的な評価を受けました。
美山は、薩摩焼の歴史や文化を体験できる観光地として多くの観光客を引きつけています。14の窯元や工房が点在し、訪れる人々に薩摩焼の魅力を伝えています。また、美山の自然環境や遺跡も、歴史好きや自然愛好家にとって魅力的なスポットです。
美山では、実際に薩摩焼の制作過程を見学できる工房が多数あります。また、訪問者は陶芸体験を通じて、自分だけの薩摩焼作品を作ることができます。これらの体験は、美山を訪れる観光客にとって特別な思い出となるでしょう。
美山の周囲には豊かな自然が広がっており、ハイキングや散策が楽しめます。また、雪山遺跡や池之頭遺跡といった歴史的な場所を訪れることで、地域の歴史に触れることもできます。
現在、美山には14の窯元があり、「薩摩焼の里」として知られています。地域には、窯元のほかにも工房や喫茶店、飲食店が立ち並び、多くの観光客が訪れます。東市来都市計画では、美山を「薩摩焼の里広域交流拠点」として位置づけ、地域の歴史と文化資源を活かしたまちづくりが進められています。
美山を訪れる際には、以下の観光スポットをぜひ訪れてください。
美山の中心部には「美山さつま焼の郷」があり、薩摩焼の伝統を感じることができます。14の窯元が集まるこのエリアでは、実際に薩摩焼の製作過程を見学することができるほか、工房での体験も可能です。また、工房や店舗では、地元の職人たちが手がけた薩摩焼を購入することもできます。
美山の南部には「薩摩焼四百年記念石塔」が立っています。この石塔は、1998年に大韓民国から寄贈されたもので、薩摩焼の歴史と日韓の交流を象徴しています。除幕式には、日本からは内閣総理大臣小渕恵三氏、大韓民国からは国務総理金鍾泌氏が出席し、歴史的な意義を深めました。
美山は、日置市の西部に位置しており、周囲は豊かな自然に囲まれています。北には東市来町長里、北東には伊集院町野田、東には伊集院町寺脇、南には東市来町美山元寺脇・東市来町宮田・東市来町寺脇、西には東市来町伊作田が隣接しています。
美山にはいくつかの河川が流れています。美山下川、美山南川、払川は、地域の自然景観を形成し、農業にも利用されています。また、美山ため池は、農業用の水源として重要な役割を果たしています。
美山には、先史時代からの歴史を物語る遺跡が存在します。例えば、「雪山遺跡」や「池之頭遺跡」では、旧石器時代から近代にかけての生活跡が発掘されました。これらの遺跡は、国道3号のバイパス道路建設時に発見され、鹿児島県教育委員会によって調査が行われました。
雪山遺跡は、美山の西部に位置する旧石器時代から近代にかけての散布地生活跡です。2002年に発掘調査が行われ、旧石器時代の剥片尖頭器や縄文時代の土器、古墳時代の成川式土器が出土しました。
池之頭遺跡は、旧石器時代から中世にかけての遺跡で、1991年の調査で発見されました。黒曜石の細石刃や縄文時代の土器片などが出土し、1万2000点以上の遺物が見つかっています。
苗代川村は、江戸時代に薩摩国日置郡伊集院郷の一部として成立しました。陶工たちがこの地に住みつき、薩摩焼を作り続けたことで、村は次第に繁栄していきました。村高は延享年間には280石余、「旧高旧領取調帳」には253石余であったと記録されています。
苗代川村は、安土桃山時代に朝鮮半島から連行された陶工たちによって形成されました。彼らは薩摩国に留め置かれ、串木野や鹿児島城下に住まわされましたが、その後、美山へと移住し、ここで薩摩焼の生産が始まりました。苗代川村の名前は江戸時代から見え、村高は延享年間には280石余と記録されています。
苗代川村では、陶工たちによって薩摩焼が盛んに作られ、その技術は薩摩藩によって保護されました。特に、慶長19年(1614年)には島津家久によって細工所が設けられ、白焼物が生産されました。また、寛文3年(1663年)と寛文9年(1669年)には、鹿児島城下の高麗町に住んでいた被虜人も苗代川に移住し、さらなる発展を遂げました。
薩摩焼(さつまやき)は、鹿児島県を主要な製造地とする陶磁器であり、国の伝統的工芸品に指定されています。 また、2007年(平成19年)1月には「薩摩焼」が地域団体商標として登録されました。 その歴史と美しさは国内外で高く評価されています。
江戸時代、薩摩焼は薩摩藩の御用品として生産者と技術者が厳しく制限されていました。 しかし、明治時代になると政府は陶磁器を貿易の重要な産物と位置づけました。 これにより、多くの産地が「SATSUMA」として輸出を始めました。 その結果、京薩摩や大阪薩摩、神戸薩摩、東京薩摩、横浜薩摩など、さまざまな地域で「薩摩焼」が作られるようになりました。 特に鹿児島で作られた薩摩焼は「本薩摩」と呼ばれ、他地域の薩摩焼と区別されました。
本薩摩は鹿児島で作られた薩摩焼のことを指し、地域ごとに異なる技法が受け継がれています。 特に以下の6つの系統が知られています。
薩摩焼には大きく分けて「白薩摩」と「黒薩摩」の2種類があります。
白薩摩は乳白色の生地に美しい色絵や錦手(にしきで)が施された高級品です。 主に上層階級の人々が使用し、贈答品としても重宝されてきました。
黒薩摩は鉄分の多い火山性の土を使い、庶民の日常生活で使われる雑器として生産されました。 その中でも代表的なものが「黒ぢょか」です。 これは薩摩焼酎を燗するための器で、薩摩の伝統的な飲み物文化と深く関わっています。 また、黒酢の仕込みに使われる甕(かめ)も黒薩摩で作られています。
薩摩焼の歴史は、豊臣秀吉の時代にさかのぼります。 文禄・慶長の役において、薩摩藩主である島津義弘が朝鮮から陶工を連れ帰り、その技術を保護・発展させたことが薩摩焼の始まりです。
薩摩焼が国際的に評価されるきっかけとなったのが、1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会でした。 この博覧会で薩摩錦手が展示され、多くの注目を集めました。 さらに、1873年(明治6年)に開催されたウィーン万国博覧会では、薩摩焼は「ジャポニズム」の流れに乗って一躍人気商品となりました。
しかし、鹿児島だけでその需要を満たすことは困難であったため、薩摩で生産された本薩摩は輸出された薩摩焼の1割にも満たなかったとされています。
現在でも鹿児島県内の多くの窯元が伝統を守りながら新たな技法を取り入れ、薩摩焼を製造しています。 また、毎年11月には「窯元まつり」や「薩摩焼フェスタ」が開催され、多くの人々が薩摩焼に触れる機会が設けられています。 これらのイベントは、鹿児島県薩摩焼協同組合によって運営されており、地元の飲食店と連携して地産地消のイベントも行われています。
幕末に日本が開国すると、美術的価値の高い日本の陶磁器は欧米へ輸出されるようになりました。 薩摩焼も1867年のパリ万国博覧会に出展され、現地で非常に好評を博しました。 しかし、薩摩藩の制限が厳しかったことから、その需要を満たすために他地域で薩摩焼が作られるようになったのです。 特に京都や横浜、東京などで作られた薩摩焼は、欧米市場向けに多く輸出されました。
薩摩焼は欧米では「SATSUMA」という名前で広く知られ、特にフランスでは「ジャポニズム」の影響を受けて、鳥や植物を描いたデザインの薩摩焼が高い評価を受けました。
京薩摩は京都の粟田を中心に、錦光山宗兵衛や帯山与兵衛によって輸出されました。 特に1878年(明治14年)には、京都の粟田で生産された薩摩焼の約9割が輸出向けでした。
東京薩摩は、河原徳立が設立した「瓢池園」を中心に生産されました。
横浜薩摩は、宮川香山などによって生産され、横浜港から多くの薩摩焼が輸出されました。
大阪薩摩は主にアメリカ向けに輸出され、明治30年代にその最盛期を迎えました。
神戸薩摩は、京都で修業した「精巧山」が神戸に窯を開き、加賀の九谷からも画工が移住してきました。
加賀薩摩は赤絵九谷から発展したもので、薩摩錦手風の絵付けを特徴とします。
このように、薩摩焼は国内外で多くのファンを持ち、現代に至るまで多様な形でその伝統が受け継がれています。
東市来町美山は、深い歴史と豊かな文化を持つ地域です。薩摩焼の伝統が今も息づくこの地は、多くの観光客を魅了し続けています。美山を訪れることで、薩摩焼の歴史を学び、美しい自然環境を楽しむことができるでしょう。美山の魅力を存分に味わい、その歴史と文化に触れる旅をぜひお楽しみください。