醫師神社は、鹿児島県霧島市国分敷根にある神社です。地元では「やくっさー」として親しまれており、これは「薬師様(やくしさま)」の方言に由来しています。現在では「医師神社」として表記されることが多いです。
醫師神社は、少名毘古那神(すくなびこな)を主祭神とし、応神天皇、神功皇后、火産霊神(ほむすびのかみ)、天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、豊宇気比売命(とようけひめのみこと)が配祀されています。これらの神々は、明治42年(1909年)に合祀されたものです。
明治維新以前、醫師神社は「門倉薬師」と呼ばれ、薩摩藩の三薬師の一つに数えられていました。しかし、明治時代の神仏分離令による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響で、薬師堂は神社として転換されました。薩摩藩の三薬師には「門倉薬師」「米山薬師」「高岡法華嶽寺の薬師」が含まれていました。
門倉薬師のあった門倉坂は、天平13年(741年)の大隅国分寺建立の詔(みことのり)以来、日州方面への重要な交通路となっていました。『三国名勝図会』によれば、門倉薬師は創建年は不明ながら、薩摩藩に帰化した蕫十八官という人物が建立したと伝えられています。その後、荒廃していた薬師堂を天正4年(1577年)に再建したのは蕫十八官の子孫である高石孫三郎と、地元の領主である敷根備中守頼兼でした。
薬師堂の天井には龍の画が描かれており、また伝教大師が作ったとされる高さ3尺ほどの木像が安置されていました。しかし、これらは時を経て盗まれてしまいましたが、天明3年(1783年)に彫刻師が新たに寄進しました。
文禄元年(1592年)の豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、島津義弘が従軍する御座舟の木材として、門倉薬師周辺の杉材が使われました。この船は「薬師丸」と名付けられ、その名前は薬師堂に由来しています。この時、木材を切り出す際には大蛇が現れたり、不思議な現象が続き、伐採が一時停止しましたが、修験者の祈祷により問題は解決されました。
慶長4年(1599年)の庄内の乱の際、島津軍は門倉薬師堂に立ち寄り、兵士たちは堂の壁に志や辞世の句を書き残しました。その中には平田三五郎宗次という若き兵士も含まれており、友人の吉田大蔵と共に辞世の句を記しました。しかし、後年薬師堂は壁が黒く塗りつぶされ、その後焼失してしまいました。平田三五郎の墓は現在、鹿児島県曽於市に残っています。
明治42年に醫師神社には、近隣の神社が合祀されました。その主な神社は以下の通りです。
祭神は応神天皇と神功皇后です。かつての社殿は石祠でしたが、現在は醫師神社に合祀されています。
火産霊神を祀る神社で、本殿は石祠があり、瓦葺きの舞殿も付属していました。
天御中主大神を祀る神社で、別名「ほっしんさー」とも呼ばれていました。かつては茅葺きの社殿を持ち、多くの氏子に親しまれていました。
豊宇気比売命を祀る神社で、別名「馬頭観音」とも呼ばれ、馬耕会の人々によって例祭が行われていました。
古くから存在していた神社で、再興の棟札が残っています。かつての神田は十字の形をしており、その土地で神事が行われていました。
醫師神社の近くには「馬頭観音」もあり、多くの参拝者が訪れます。また、この地域に関連する書物として『三国名勝図会』や「ふるさと敷根の神々」があります。