黒豚は江戸時代初期に、薩摩藩の初代藩主島津家久によって沖縄から移入された。黒豚の名が全国に広まったのは幕末から明治にかけて。幕末の水戸藩主徳川斉昭を「いかにも珍味あり、滋味あり、なによりも精がつく」と感嘆させた。あの西郷隆盛もこよなく愛したと言われている。このように歴史に育まれた鹿児島黒豚は、筋繊維が細かく、肉質のしまりに優れている。そのため、歯切れがよく独特の小味があり、他では味わえない美味しさで大好評なのだ。鹿児島黒豚は、鹿児島が品質、生産量ともに誇れる特産品である。
「かごしま黒豚」とは、鹿児島県で飼育されたバークシャー種の豚やその生体を指します。この名称は、1999年に商標登録されました。
黒豚のブランドは、鹿児島県以外にも存在しますが、かごしま黒豚は特別扱いです。過去には、食肉市場では牛肉並みの高値(Bランク)が付けられたこともあります。
外観の特徴は、バークシャー種の一般的な特徴である六白と呼ばれる白い部分があります。つまり、四肢、鼻梁、尾端の6ヶ所に白斑があります。育成の特徴としては、体質は強健ですが、他の品種に比べて産子数が少なく、発育が劣り、肥育期間が長くなります。肉質としては、繊維が細かく柔らかく、光沢と弾力に富んでいます。保水性が高く、脂肪融点が高いのが特徴です。また、サツマイモを含んだ飼料で飼育することによって、うま味や甘みが増します。
かごしま黒豚の歴史
1546年、ポルトガル人船長ジョルジュ・アルヴァレスが鹿児島県山川漁港に来航し、山川で豚の飼育が行われていることを報告しました。この報告によれば、豚は山川港近郊で飼育されていましたが、その起源ははっきりしていません。古代から養豚を行っていた中国が関与している可能性が高いと考えられていますが、具体的な証拠はありません。中国からの伝来ルートも諸説あり、倭寇を介したルートや琉球王国を経由したルートが挙げられます。琉球ルートでは、薩摩藩が1609年に琉球侵攻を行った際に豚を持ち帰ったと考えられています。
鹿児島では、かつて仏教的な思想から牛や馬を食用にする習慣はありませんでしたが、豚と鶏は「歩く野菜」と呼ばれ、それぞれの家庭で飼われ、祝い事や行事の料理に使われていました。鹿児島と琉球王国との関係、薩摩藩の狩猟奨励政策、そして交通の不便さなどが、他の地域と比べて鹿児島での獣肉食の禁忌が薄かった理由とされています。
養豚業を産業として発展させたのは、枕崎市出身の獣医師である園田兵助です。園田は台風に強いサツマイモと漁師町の餌である魚を組み合わせた養豚を考案し、バークシャー種の導入や養豚組合の設立に尽力しました。同時期に家畜商をしていた森繁雄は、1949年に鹿籠駅から初めて東京に黒豚を出荷し、それが大きな評価を受けました。太平洋戦争中は貴重なタンパク源として黒豚が利用され、戦後には再びバークシャー種を導入して黒豚が復興しました。
1970年代には大型種への需要が高まり、黒豚の生産は減少しましたが、鹿児島県内の黒豚愛好家の努力により、黒豚の再評価が進みました。1999年に商標登録されたかごしま黒豚は、再び注目を集め、2005年には県内での割合が38%にまで増加しました。
放牧
放牧地は様々で、土地のみのものや牧草を生やしたもの、栗の木を植えたものなどがあります。共通しているのは、人工的な水溜りが設置されていることです。豚は無汗腺動物で体を冷やすためと、清潔好きな性質から身体の害虫を洗い流すために水溜りで寝転がる習性があります。放牧を取り入れる理由は、黒豚の難産傾向の緩和、販売面での有利なイメージ作り、肥育期間の長さから早く出荷させるための運動、足腰の強化などが挙げられます。
放牧は離乳後すぐから肥育時期まで様々なタイミングで行われます。基本的には豚舎と隣接しており、夜には豚舎に戻り、朝から夕方まで放牧場に出かけます。豚舎には豚が出入りしやすいように出入口が設置されています。しかし、実際には放牧を行う農場はほとんどありません。農場周辺住民の理解が得られない、疾病の問題、畜場の受け入れ拒否などの理由からです。そのため、ストール飼育やスノコ豚床飼育、オガクズ豚床飼育が一般的です。
飼料
農家によって独自の配合飼料や市販の配合飼料が与えられます。基本的にさつまいもが基礎配合されますが、他にも大麦やパンくず、荏胡麻、焼酎粕、栗、海藻、牧草などが与えられます。飼料や飼育方法は農家の裁量に委ねられているため、品質のばらつきが大きな課題となっています。