城山は鹿児島市中央部に位置する山であり、国の史跡および天然記念物に指定されています。かつては「鶴丸山」や「上之山」とも呼ばれたこの山は、歴史的な意義を持つ場所です。以下では、城山の特徴と歴史について詳しくご紹介します。
城山は鹿児島市の中心部にある丘陵で、城山展望台の標高は107mまたは108mとされています。また、北方に位置するMBC南日本放送城山送信所跡地(鹿児島市長田町)付近には標高123.4mの三角点があります。山の大部分はシラスで構成されており、現在は城山公園として整備されています。徒歩や車でのアクセスが可能であり、鹿児島市内から鹿児島湾や桜島を望む絶好の景観スポットとして人気を集めています。昼間の晴れた日には霧島山系や開聞岳も遠望できます。
城山にはクスノキ、シダ、サンゴジュなど600種以上の亜熱帯植物が自生しています。整備された遊歩道では、これらの植物を観察することができ、自然の豊かさを感じられる場所です。
城山は1877年(明治10年)の西南戦争において、最終決戦である「城山の戦い」の舞台となりました。西郷隆盛率いる士族たちはこの地で抵抗を試みましたが、官軍に敗北し、西郷隆盛は自刃しました。現在も城山には、西郷軍の司令部が置かれた洞窟(通称「西郷洞窟」)や西郷隆盛の終焉の地など、西南戦争に関連する史跡が残されています。
「城山」の名前は、中世に地元の豪族である上山氏がこの山に築いた山城に由来します。1601年(慶長6年)、島津忠恒(のちに「家久」に改名)は鹿児島城(鶴丸城)の築城地としてこの地を選びました。城山にも手が入れられ、麓の屋形に緊急時の後詰めの城として「上之山城」が整備されましたが、1614年(慶長19年)に城代の島津常久が死去すると、城代は任命されず、立入禁止となりました。これにより、城山は自然に返り、現在のような樹木が繁茂する原生林へと戻りました。
1877年(明治10年)、西南戦争において西郷軍は城山に立てこもり、最後の抵抗を試みましたが、官軍の前に敗北しました。西郷隆盛は自刃し、多くの西郷軍側将兵も戦死しました。この戦いの詳細は「城山の戦い」をご参照ください。
1906年(明治39年)には城山公園(15.6ha)が開設され、その一部(10.9ha)は1931年(昭和6年)に国の史跡および天然記念物に指定されました。ただし、西郷洞窟は城山公園の区域には含まれていません。
現在、城山の南部(鹿児島市新照院町)にはSHIROYAMA HOTEL kagoshimaやNHK-FM放送の送信所(鹿児島親局テレビ・FM放送所)が建てられています。また、公園整備時に駐車場が設置されたため、この区域にあった上之山城の城郭部は破壊されて現存していません。