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妙円寺詣り

(みょうえんじ まいり)

妙円寺詣りは、鹿児島県日置市で毎年10月の第4週の土曜日と日曜日に開催される、歴史的な行事です。この行事は、鹿児島三大行事の一つとして知られており、江戸時代から続く伝統を今に伝えています。

概要

妙円寺詣りは、かつての鹿児島城の城下町である鹿児島市から、武将・島津義弘が祀られている徳重神社を目指して歩く行事です。江戸時代から続いているこの行事は、島津義弘が関ヶ原の戦いで見せた奇跡的な生還を記念し、心身を鍛えることを目的として行われています。

歴史

妙円寺詣りの起源

妙円寺詣りの起源は、戦国時代の名将・島津義弘に由来します。義弘は自らの菩提寺として妙円寺を指定し、自身の木像を仏師・康厳に彫らせました。この木像は生前の義弘を象徴するものとして大切にされ、参拝者たちはこれを「生きた義弘」として敬いました。

関ヶ原の戦いの前夜にあたる旧暦9月14日、鹿児島城下の武士たちは甲冑に身を包み、鹿児島市から約40km離れた伊集院郷徳重村の妙円寺までを夜通し歩いて参拝しました。この行事が妙円寺詣りの始まりとされています。

郷中教育との関わり

妙円寺詣りは、薩摩藩の教育制度である「郷中教育」に深く結びついています。薩摩藩では、「山坂の達者は心懸くべきこと」という教えがあり、この行事を通じて若者たちは体力と精神力を鍛えました。また、島津忠良を祀る日新寺の加世田詣りや、島津歳久を祀る心岳寺の心岳寺詣りも、妙円寺詣りと共に受け継がれてきました。

大規模な行事としての発展

1828年の新納久仰の記録によると、この頃には妙円寺詣りは既に大勢の武士たちが参加し、寺内ではアワの粥が売られるほどの大規模な行事になっていました。大正時代には大久保利武や西郷隆盛も参加し、多くの見物客が詰めかける大きな催しとなりました。

廃仏毀釈と徳重神社

明治時代の廃仏毀釈によって妙円寺が廃寺となった後、この行事は徳重神社で行われるようになりました。元々妙円寺に安置されていた島津義弘の木像は、現在では徳重神社に祀られています。以降、この行事は市民的なものとして広まり、小・中学生の集団鍛錬行事としても行われるようになりました。

戦時中の妙円寺詣り

戦時中には、郷中教育を行っていた学舎にとって妙円寺詣りは特に重要な行事でした。参加者は他の学舎に負けまいと多くの人を集め、黒山の人だかりができるほどの盛況ぶりでした。また、昭和19年まで妙円寺詣りは続けられましたが、戦争の影響で一時中断されました。

現在の妙円寺詣り

市民的行事としての発展

妙円寺詣りは、平成5年(1993年)から毎年10月の第4週の土曜日と日曜日に開催されるようになりました。2014年には約8万人が妙円寺詣りのために伊集院町を訪れました。近年は新型コロナウイルス感染症の影響で一部のイベントが中止されましたが、行事自体は継続されています。

参拝者の様子

妙円寺詣りの当日は、鎧武者姿の参拝者だけでなく、軽装の一般参拝者も多く見られます。鹿児島市内をはじめ、近郊からの幼稚園、保育園、学校も隊を組んで参拝に参加し、陣羽織や武道用の袴を着た学生や、ダンボールで作られた紙鎧を着た小学生も見受けられます。

参拝ルートと休憩所

参拝者は主に鹿児島市の照国神社から約20kmの道のりを歩きます。その途中には、日中に休憩所が設けられ、お茶、甘酒、漬物、梅干し、飴玉、黒砂糖などが振る舞われます。また、自由に歩く参拝者も多く、参加者それぞれが自分のペースで参拝を楽しんでいます。

妙円寺詣りの特設イベント

妙円寺詣りの期間中には、全国の有名武将の家紋が印刷されたのぼり旗や、徳重神社や妙円禅寺の奉納のぼり旗が立てられ、参加者たちが薩摩街道や出水筋跡を歩く姿が見られます。妙円寺詣りは鹿児島の歴史と文化を体感する貴重な機会となっており、今後も多くの人々に受け継がれていくことでしょう。

Information

名称
妙円寺詣り
(みょうえんじ まいり)

鹿児島市・桜島・霧島

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