益救神社は、鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦に位置する神社で、古くから信仰の対象とされてきました。屋久島という自然豊かな島にあるこの神社は、式内社としてその歴史的な重要性も高く、旧社格は県社です。島の文化や歴史に深く関わる神社として、訪れる人々に感動を与え続けています。
益救神社は、『延喜式』神名帳に記載された神社の中で最も南に位置します。現在は「やく」と読むものの、かつては「ますくひ」や「すくひ」とも読まれていました。旧称は「須久比ノ宮」や「一品宝珠大権現」などで、長い歴史の中でさまざまな呼び方が存在しました。
神社の鳥居をくぐると、拝殿と本殿があり、訪れる人々を静かに迎えます。拝殿で参拝し、歴史的な本殿を拝むことで、古代から続く信仰を感じ取ることができるでしょう。
益救神社の主祭神は、天津日高彦火々出見命(あまつひこひこほほでみのみこと)で、これは山幸彦として知られる神です。この神は海幸山幸神話に登場する人物としても有名です。
他にも以下の神々が祀られています:
これらの神々は、屋久島の自然や山々、海に関連した神々であり、島全体の守護神として崇められてきました。
益救神社の創建に関する具体的な由緒は不明ですが、『日本書紀』には、舒明天皇元年(629年)に田部連を掖玖(屋久島)に遣わしたという記述があります。また、天武天皇8年(679年)の記述によると、屋久島への使者が派遣されたことからも、この地が南海航路の重要な地点であったことが伺えます。
『続日本紀』にも、南島に使者を遣わし、島名や港、湧水地などを記した牌を建てさせたとの記述があります。この牌が「澪標(みおつくし)」と呼ばれるものであり、その語源が益救神社に関連しているという説もあります。
8世紀から9世紀初頭にかけて、屋久島と種子島が多禰国であった時代に、益救神社はその一宮であったと伝えられています。また、『延喜式』神名帳において大隅国馭謨郡に「益救神社」と記載されており、これが文献上での初見です。これにより、益救神社は式内社として小社に列し、最も南に位置する式内社となりました。
戦国時代には、屋久島は種子島氏の所領となり、法華宗を重視したことで益救神社は一時衰退しました。江戸時代になると、屋久島は薩摩藩領となり、貞享2年(1685年)には薩摩藩士の町田孫七忠以によって現在の場所に再建されました。この際、古記は失われていたため、主祭神は火々出見尊が選ばれました。
明治4年(1871年)、主祭神の一部が他の神社へ分祀され、現在の形となりました。また、第二次世界大戦中の昭和20年(1945年)には、アメリカ軍の爆撃により社殿が焼失しましたが、昭和29年(1954年)には新しい社殿が再建されています。
益救神社の境内には、本殿が三間社流造の形式で建てられています。春秋の彼岸になると、屋久島では「岳参り」という風習があります。村落ごとに若者たちが御岳に登山し、シャクナゲの枝を土産として里に持ち帰るこの風習は、島の自然と深く結びついた伝統です。現在では自然保護の観点から、この風習は少し変化していますが、島の人々にとっては今も大切な行事です。
益救神社の所在地は以下の通りです:
鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦277
屋久島の中心地である宮之浦から容易にアクセスできるため、島を訪れた際には是非立ち寄ってみてください。